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よこぜの伝説

更新日: ページ番号:001397

横瀬には多くの伝説が残っています。代表的なものをご紹介しましょう。

このページの目次

    武甲山の話

    むかしむかし、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征されたおり、雁坂峠の頂上から秩父の山並みを眺め、武人のように堂々とそびえ立つ山の名をたずねました。

    里人はその名を「秩父が嶽(たけ)」と答えました。

    すると日本武尊はさっそくその山に登り、天の神・地の神をまつられたのです。

    そしてその時、着用 していたご自分の甲(かぶと)を岩室(いわむろ)に納めたので、その後この山を「武甲山(ぶこうさん)」と呼ぶようになりました。

    横瀬町のシンボル武甲山の名はこうして付けられたのです。

    二子山のお話

    むかしむかしダイダラ坊という大男の神様がいました。

    なにしろ、山をつくったり、川や池をつくったりする神様だから体も大きいのです。

    ある日、このダイダラ坊が秩父に山をつくるため、大きなモッコに土を盛り、天びんで担いでやって来ました。

    ところが芦ケ久保まで来た時、窪地に足をとられ、モッコの土をこぼ してしまったのです。

    ちょうど同じくらいの量の土をこぼしたので、同じような形の山が2つできてしまいました。

    それが今、二子山(ふたごやま)と呼んでい る山です。

    そしてダイダラ坊が足を突っ込んだ窪地が「足窪」つまり今の「芦ケ久保」という地名の由来なのです。

    なんだか落語のオチみたいな伝説ですね。

    「松藤絶えろ」のお話

    むかしむかし、武甲山に山姥(やまんば)が住んでいましたが、おそろしい神通力を持っていて、悪さをしては、里人を困らせていました。

    ある時、村を通りかかった行基がこの話を聞き、武甲山の頂上で17日間の祈祷を行いました。

    すると、神通力を失った山姥が行基の前に姿を現したのです。

    行基がすかさず山姥を「松」の木に「藤」のつるで縛りつけると、山姥は悪行を悔い、お詫びのしるしに自分の歯を抜いて行基に渡しました。

    しかし、よほど悔しかったのでしょう。

    おもわず「松藤絶えろ」と怒鳴ったので、それから武甲山に「松」と「藤」は生えなくなったのです。

    最近は、東京の渋谷に山姥が出没すると聞きます。

    丸山の長者のお話

    むかしむかし、芦ケ久保の丸山に長者がいました。

    屋敷の広い庭から、目の下に広がる田畑を眺めては「見えるかぎりの田も畑も山も、みんなわしのものだ」といばっていました。

    姿原の広い田んぼは、その年も米が豊作です。

    長者は百姓に言いつけ稲を刈らせ、屋敷へ運ばせましたが、しだいに太陽が西の山に沈みかけたのです。

    長者はあわてて「夕日よ、もどれもどれ」と手にした扇であおぎました。

    すると刈り取られ山のようになった稲の束は、たちまち大きな岩になったのです。

    人々はこの岩を「いなむら石」と呼んでいます。

    「天に唾する」という格言がありますが、それに近い意味を含んでいるのでしょうか。