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横瀬の人形芝居

小栗判官実道記一矢取の場

  • 県指定無形民俗文化財
  • 昭和52年3月29日指定
  • 所在地   横瀬町大字横瀬6110番地
  • 保持団体 横瀬人形芝居保存会

 安政年間(1854~60)江戸の説経節の3代目薩摩若太夫は、数回にわたり秩父を訪れ、そのつど三峯神社に参拝し、柴原の鉱泉宿(現秩父市荒川小野原)に逗留した。その折、旧荒川村の農民坂本藤吉は太夫に師事し薩摩若太夫を名乗った。これが秩父に説経節が伝えられた経緯であり、横瀬村の若松佐登太夫(初代横瀬村長・若林又右衛門)は、その弟弟子にあたり、江戸で人形の頭を求め、説経節にあわせて演じる人形芝居を創立した。こうして横瀬の人形芝居は始まり、秩父地方の祇園祭りの他、行田、足利、熊谷、越生などへ興行に出かけたという。
 その後、明治年間の中頃一時活動が下火になり、大正初期に復活した。昭和に入ると地元における興行に加え、秩父織物の宣伝と結びつき、東京や名古屋などまで出かけて公演を行った。現在使用されている水引幕や引幕はこの時期に調製されたものである。
 人形は一人遣いで、少人数の観客を対象とする小さな舞台で、農家の座敷などで演じるのにふさわしく豆人形とも呼ばれ、背から差し込んだ右手で人形の頭と手を遣い左手で顔の表情や着物の裾をさばくが、この所作が茶道の袱紗(ふくさ)さばきに似ていることから、袱紗人形との別名がある。人形芝居には妙な「廻り舞台」を持ち、宮大工・荒木和泉の作と伝えられている。
 また、廻り舞台の襖絵は、川西日向地区出身で幕末から明治初期に活躍した「秩父三山」の一人といわれる泉武山(1845~93)が描いている。平成2年度より3か年計画で舞台の修理が実施され、創立当時の絢爛たる舞台が復元した。
 現在上演されているものは、「横瀬四説経」といわれる「小栗判官実動記-矢取の場」「江戸紫恋緋鹿子-八百屋お七忍の場」「芦屋道満大内鑑-葛の葉二度之別の場」「日高川入相桜-清姫怨霊の場」である。
 現在の上演は、5月中旬の日曜日と、10月の最終日曜日に行われる「よこぜまつり」で公演している。